堀ひろ子という友人(最終回・前編)/aheadアーカイブス vol.94 2010年9月号

1970〜80年代にかけて、バイクでの世界一周ツーリングや女性だけのバイクレースを主催し、自らもレースに参戦していたカリスマ女性ライダー、堀ひろ子。彼女に魅了されたカーライフ・ジャーナリスト、まるも亜希子が5回にわたり、堀ひろ子から学んだメッセージを綴る。

(「ahead」2010年9月号より転載)

堀ひろ子(1949〜1985年)/女性ライダーの草分け的存在。'76 年当時、女人禁制だったロードレースに界に自ら出場し女性参戦の道を切り拓いた 。レースとともに、世界一周ツーリング('75年)や にサハラ砂漠縦断('82年)、女性向けバイク洋品店「ひろこの」 経営など精力的に活躍。著書も多数残している。(写真:原 富治雄)


堀ひろ子という友人


 見たこともない斬新なバイクが、月刊誌『モト・ライダー』のグラビアを飾ったのは、 ‘77年4月のことだった。 名前はヤマハ・MR500ロード・ボンバーと言い、写真に添えられた “爆弾” の飾り文字が鮮烈だ。イエローに塗装された外装はとてもシンプルだが、横幅の狭さがまず目を惹く。エンジンは2気筒や4気筒が常識だった中、突如現れた異端児のごとき500ccの単気筒である。 この記事は読者の大きな反響を呼び、ヤマハの販売店にまで問い合わせが殺到したという。


 しかし、記事内で「発売日」と書かれたのは 4月1日。 つまりヤマハからロード・ボンバーが発売される事実はなく、読者はまんまと“エイプリルフール”に引っかかって「ヤラレたー」と冗談で終わる、というシナリオだったのである。

 『モト・ライダー』編集部ではサプライズ記事を載せる一方で、ロード・ボンバーのナンバー登録ができないものか、と考えていた。そう教えてくれたのは、当時の『モ ト・ライダー』編集者であり、このロード・ボンバー企画に携わっていたという、モーターサイクルジャーナリストの山田 純さんだ。   


 「当時の編集長だった鈴木脩己さん、エンジニアの島 英彦さんが中心となり、自分たちが考える、理想のバイクを造ろうとしたんだ。その頃のロードレーサーの主流はマルチエンジン(4気筒)といって、100馬力くらいあって速いんだけど、重くて大きくて運動性能はあまり良くなかった。でも単気筒なら、トップスピードは低くてもハンドリングが良くて、日本のワインディングを走るにはすごく面白いだろうな、と」。


 しかしナンバー登録への道は険しく、メーカーでなければ無理だと判断した編集部は、ロード・ボンバーをあらゆるテストに使おうと企画を練った。


 通称 “8耐”こと鈴鹿8時間耐久ロードレースは、今なお真夏のビッグイベントとしてライダーたちを熱くさせている。 ‘78年に開催された第1回のリザルトを見ると、 堂々8位に山田純/石井康夫ペアの名前が残っていた。 これこそが、ロード・ボンバーで見せた快挙だった。しかし物語のはじまりは、この前年にさかのぼる。今では8耐の前身と言われている、 ‘77年夏の鈴鹿6時間耐久レ ースがその舞台だ。ピットでひときわ注目を集めていたのは、ついに大観衆の前でレースデビューを果たすロー ド・ボンバーと、大会唯一の女性ライダー・堀ひろ子の姿だった。 


 「6耐のライダーには、ずっとテストを担当してきた僕と、そのペアにひろ子が推薦されたんだけど、まだ本格的なレース経験がなかったひろ子に、製作者の島さんが条件を付けたんだよ。上り坂で押しがけができたら、出てもいいぞと」。山田さんは、出場の経緯をそうふり返る。 バイク乗りの知人にその話をすると、「そんなの男でもまず不可能に近いね。押しがけって普通、平坦かゆるい下り坂でやるものだよ。たぶん、条件出した方もどうせ 無理だろうと思ってたんじゃない?」 


 だとしたら、出された条件に彼女の闘志が燃えあがる様を見たような気がした。彼女は、山田さんがロード・ ボンバーのテストをする筑波などに同行し、ひたすら押しがけの練習に励む。コツをつかむのは早かったが、やはり完全にマスターするには相当な時間を費やしたという。そして、レースに向けての走り込みも重ねていっ た。初めてロード・ボンバ ーに跨がった彼女は、「こんなに細くていいの?」と車体のコンパクトさに驚き、 走り終えた第一声は「とても素直で乗りやすい」というものだった。タイムは決して遅くはなかったし、とても丁寧で扱いが上手かったと、山田さんは証言する。 


「どういうふうに走るのか、あのコーナーは何速か、とか熱心に聞いてたね。美人だからチヤホヤされてチャラチャラしてるように思われがちだけど、実はコツコツと真面目にやる子だった。行き当たりばったりじゃなくて、 しっかりと準備をするタイプだったよ」。 

発売された直後の『 RZ250』を、テールカウルを取り外してプロダクションレースに参戦 。(写真:原 富治雄)

 

 そして迎えた決勝は、真夏の炎天下でスタートした。当時の鈴鹿サーキットを写真で見ると、私はそこが鈴鹿だとはとても信じられない。コースサイドは草ボウボウ で、ただ金網が観客席とを隔てるのみ。 


「そうそう、ピットの裏だって、今みたいに冷房付きのボックスなんてないんだ。ただの駐車場」と山田さんも笑う。そこに子供用のビニールプールを置いて、走り終えたライダーはパンツ1枚でザブンと浸かり、涼をとるのが当たり前だった。ツナギもヘルメットも、通気性のいい夏用などないし、走行中のドリンクもないからピットインするまで何も飲めず、時に脱水症状を起こす。 


「もう、男でも参っちゃうほどなのに、ひろ子はまったくツライって顔を見せなかったな。スタミナも、精神的な強さも備わっていたんだろうね」。


 あ、そうだ、とそこで山田さんが思い出したのは、彼女が発案したというヘルメットの汗とり方法だ。   


 「純ちゃん、コレがいいよってひろ子が持ってきたのが、 ほら、女性が使うナプキン。あれを内側に貼っておくん だ。どのメーカーが吸水性がいいとか言ってたっけな」 。


 何もかもが、男とか女とかを超えている。そこにはただ、一緒に闘う仲間という意識があり、彼女は彼女らしいやり方で、マイナスを補い埋めていく。紅一点のサー キットでもそれが自然とできてしまう彼女が、私は好きだ。 


 レースはほぼノントラブルで周回を重ね、彼女は押しがけを一発で決めるどころか、ロード・ボンバーを安定して乗りこなし、期待に応えた。総合18位は予想以上の立派な成績だと、『モト・ライダー』誌面は讃えている。 そしてこの経験は、彼女が秘めていた可能性のつぼみを開かせる、恵みの水となったのだった。  

'81 年、2回目の4時間耐久レースを『GSX4 0 0E』で無事完走。チェッカー後のクールダウンラップ。 (写真:原 富治雄)


 <aheadアーカイブス vol.94 2010年9月号> 


ーーーーー後編を読むーーーーー


<著者プロフィール> 

まるも亜希子/Akiko Marumo 

自動車雑誌編集者を経て、カーライフ・ジャーナリストとして雑誌やトークショーなど多方面で活動中。 04、05年にはサハラ砂漠2500キロを走破する女性だけのラリーに挑戦、完走を果たした。 また04年に女性として初めて、ハイブリッドカーで耐久レースに参戦、完走。現在も毎年のライフワークとしている。 




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